学校がいじめ自殺を認めない理由
学校が否定していても、常識的に考えていじめが原因であると思われる児童生徒の自殺は後を絶たない。
こういった事件では学校が、いじめがあったことを認めない、自殺だと認めない、自殺の原因がいじめだと認めない、という事例が散見される。
飛び降りなどの場合、警察の結論では自殺となったが教育委員会では事故と判定され、警察庁の統計と文部省の統計では取り扱いが違ってしまうケースもあったそうだ。
学校側のこういった対応は自己保身のためである。私は類似の事件をいくつか見聞きするなかで、当初はそのように考えていた。ただ自分の身を守るために嘘を吐くなど教育者にあるまじきことだと憤りを感じていた。
しかし、教員の利益のみを目的とした虚偽を貫き通すことが本当に可能なのだろうか。数多の事件でこの嘘を告発するものが現れないのはなぜだろうか。
もしかして、学校側は「善意」で嘘をついているのではなかろうか?
ここで関係者を整理してみよう。
- 教員(教育委員会)
- いじめ被害者
- 被害者の親
- いじめ加害者
- 加害者の親
これにもう少し付け加えたい。
- 教員(教育委員会)
- いじめ被害者
- 被害者の親
- いじめ加害者
- 加害者の親
- いじめの傍観者
- いじめの傍観者の保護者(その他生徒の保護者)
最後の2つは、中心的でないという意味でやや関係性が弱まるとも言える。
学校がいじめ自殺を認めた場合、いじめ加害者は殺人者である。刑法上は殺人罪を問うことはできない。しかし道義的には、殺人者である。
では、いじめの傍観者はどうなるか。傍観者もまた、あえて止めることをしなかったという間接的な殺人者である、ということになる。
学校側は、ときに数十人にも上る傍観者たちにこの道義的な罪を負わせることがあまりにも重大すぎる、と考えているのではないだろうか。
いじめ自殺を認めないのは「いじめの傍観者たちを守るため」ではないだろうか。
この議論を「子どもを守るため」と一般化すればあるいは、いじめ加害者も守ろうとしていると見ることもできる。思慮分別の浅い子どもが複数人でいじめていた場合など、その行為に対して殺人の罪を負わせるには釣り合わないという考えによって。
また、多くの場合はPTAから真実を明らかにせよという要求が行われないということも説明できる。いじめの傍観者はマジョリティであり、その保護者もマジョリティである。潜在する現在進行中のいじめとその傍観者まで考えに入れれば、他人事だと思うことはできない。
このように考えると、いじめ自殺を認めないことは先にあげた関係者リストのうち、いじめ被害者の親以外の全ての人たちにとって利得があることになる。
それゆえにいじめ自殺の隠蔽と虚偽は、いつまでも発生し続けることになるのである。
以上がいじめ自殺を認めない理由の推測である。
が、しかし、本当に本当に本当に、真実これで子どもたちを守ったことになるのだろうか。
いじめ自殺を認めないことによって、子どもたちの傷はより深くなってしまうのではないか。
グリーフ・ワークというものがある。グリーフは悲嘆の意味であり、喪の仕事、悲嘆のプロセスなどと訳される。悲しいことがあったとき、ショックを受け、ときにその現実を否認したり、絶望感も持ったりしながら、やがて立ち直って行くというプロセスのことだ。
いじめ自殺を認めなかった場合、その周囲にいた人間は、きちんと悲しんだり後悔したり謝罪する機会が失われることになる。
そんな状況で一人の人間の死をどうやって受け入れて折り合いをつけてゆくのだろう。
あれはいじめ自殺じゃない、自分のせいじゃない、ということを死ぬまで自分に言い聞かせながら一生を送ることになりはしないか。
その判断が子どものためになるものなのか、教員も保護者もよく考えてみて欲しい。