音楽の道具的用法

 ちょっと気になっていたアーティストが有名になってしまうと興味がなくなる、というのはよくあることだろうか。いったん売れてしまうと、新進に対して抱くような期待感が薄れてしまう。
 マイナーなうちは固有性を顕在化することで売上を伸ばそうとして、ある程度の水準に達すると今度は、広く受け入れられるような普遍性を持たせなければ売上が向上しなくなる。
 普遍的な作品はえてしてくだらないとかそういうことは言えないが、固有性を希釈しなければ普遍性を持たせることができない。


 本題だが、音楽は宗教的祭礼が起源であるといわれるので、それ自体を目的としないことは正統的な見方である。ドライブのBGMにしてもダンスミュージックにしても。


 ここで、カラオケの位置はやや特殊というか占める役割が非常に大きいように見える。


 日本でカラオケがなくなったら邦楽は変わるだろうか。歌える曲、カラオケで盛り上がる曲という強みはなくなる。市場原理の元ではこういった付加価値は必要だ。


 小説では純文学とエンタテイメントという基準が分離しているように、音楽も使える音楽と聴ける音楽とに分離すべきなのではないだろうか。現代音楽とクラシックですでに分離しているともいえるが、それでは専ら聴く音楽、芸術としての音楽を志向する人の取れる選択肢が狭まってしまう。


 芸術一般の道具的用法とは不特定多数が共有できることが必要条件だとするならば、音楽の道具的用法が可能になるにはレコードなどによる不特定多数への配信とそれを歌う自由が不可欠である。
 映画は配給されたフィルムを観るということで可能である。舞台や小説では、共有できる時間や規模の範囲は限られる。


 道具的用法が可能になってしまったメディア、分野では、市場において芸術的基準よりも「使える」ことの基準が大きくなり、芸術性が薄くなってしまうのかもしれない。