距離

 諦観というのは、それが成熟の果てに獲得されたものであっても、単なる無関心に変化し得るものではないのか。

 理解と受容は違う。理解は受容において必ずしも必要ではない。

 より良い選択の可能性が罪であり、その行為能力が有責性である。他に何もできなかった、自分にはできなかったということがそれらの否定となる。

 自分は悪くないと信じられるのは、神を信じないでいられる強い者たち。