おわったもの

 タジマという場が与えうるものは大きい。私が想像できない程度、領域にわたっていることだろう。
 しかし、そういった「場」を造り、保っていく過程で犠牲になったものも、確かにある。それはコストであり必要悪なのだろう。窓ガラスや飲み代や試験の点数などである。物や金や時間、あるいは感情、様々なものが費やされた。タジマはそういうものを飲み込んでドライブしていった。
 そこに、タジマを離れる者もいた。離れる、と自動詞を使うことは適切でないと思う。場に順応できなければそこにあり続けることはできない。消えるか去るかしかない。逆に、あり続けるということは順応し、そして同時に場に対して影響を与えてその性質を変容させていくことになる。タジマはちょうど生き物のように、同化と排斥を同時に行いながらそれ自身を維持していった。
 排斥されたのは誰か。それは、排斥されなかったかもしれない誰か、だ。そしてそこでは何かが失われていたでだろう。彼の時間や感情や機会や思い出やなにかが……。

 もしこれを「奪った」と言えるならその主体はタジマであり、タジマの責任なのだ。