「働く意味」の誤謬

 「働く意味は何ですか?」という問いは厳密な論理学で言うと詭弁である。働くことには必ず意味が有るという前提が含まれているからだ。したがってこの問いは「働かない」という選択ができない人にとっては問うても仕方が無い。問いの前提である「意味があるから働く」という条件に当てはまらないからだ。


 働くこと、それ自体に意味を見出そうとる試みは無謀だろう。証券の取引による利鞘を得ることと、畑を耕すことに同じ意味を付すことは正当ではない気がする。デイトレーダーは何も生産しない。キャピタルゲインGDPには含まれない。労働の結果は仕事によって異なる。


 初めの問いは、「その仕事をする意味は何ですか?」に行き着く。自己実現、社会貢献、金、何でも良いだろう。
 何がしかの意味を見出して、それによって仕事を決めているのだ。金を得たいならば、何のために金が要るのか。生きるために金が必要なら生きることに意味を見出していることになる。
 大多数の人々は自分の目的を持っていて、働くことでその達成に近づいている。一方で、働くことで目的を達成できない人や目的を持ち得ない人に対して、「働かない」という選択が妥当でないと断じることはできない。

 このような、働くという行為に対して中立的な意見は「世間」では否定される。そして、前述した詭弁が通る。もっともな命題として受け取られる。
 価値観とは無根拠な前提である、と言えるかも知れない。が、そういった自覚できなかった思い込みを一つ一つ自覚していくことが、何事かを理解する助けになる。