文化人類学をかじった人が感じる飲み会の意味

ここでは「飲み会は時間の無駄」であるということを言いたい。

 

文化人類学だったか構造主義だったかはっきり覚えていないが、イニシエーションという概念がある。通過儀礼と訳される。

これはある境界を越える、通過する際に行われる儀礼である。つまり、通過に伴って儀礼を行うというのが一般的だということである。

バンジージャンプは成人儀礼としての通過儀礼で、この場合は子どもの集団に属してきた人間が大人の集団に移るという意味で境界を越えることに伴う儀礼である。

葬式はそのまま生死の境を越えるということになる。

 

例えば会社組織において必ず催される飲み会は歓迎会、送別会、年を越える際の忘年会であり、イニシエーションと言えるのではないか。

アメリカ文化には不案内なので的外れかも知れないが、いわゆるホームパーティーとは意味合いが異なる。

もちろん、単に懇親のための飲み会もある。散発的偶発的に開かれる会もある。しかし、そのあり方のひな形はイニシエーションではないだろうか。

 

飲み会を投資という人があるが、どうもいけ好かない。関係をつなぐために酒席を囲むなど窮屈だと思うのだ。有意義な情報を交換する会話など楽しくないだろう。何か目的があったり、実益を求めたりということがさもしいように感じる。接待は接待と割り切っているだけましである。

 

儀礼というのはそれそのものに意味がある。執り行われることに意味がある。

それによって何かを得ようとするものではない。ご利益があるものではない。捧げるものなのだ。

儀礼の本質は無駄だということだ。

 

バンジージャンプなど実際的な意義は何もない。葬式も皆で喪服を着込んで仰々しくやることに何の意味があろうか。

送別会というのは、あなたのために皆の2時間を無駄にするという意思表示だと思う。

そしてそれはその他の飲み会も同じだろう。

私は誰かと飲みに行くときは、あなたのために私の時間を無駄にするという気持ちでいることにしている。

 

そうやって何年がするうちに、その無駄が痛快であるようにも、格好つけて言えば粋であるようにも感じるようになった。

 

来週もまた飲みに行くが、自分のために時間を無駄にしてくれる人があるというのは有り難いことである。