死を取り戻す

 

この人は寿命を迎えたと判じるのは、何によってか?

心電図、脳死判定だろうか。

近代以前は、あるいは高度な医療が行き渡る前は、共同体の文化がそれを決めていたのではないか?

 

ものが食えなくなったら、もう老いて衰えているから仕方がない

足を踏み外して崖から落ちたら、足腰が弱っていたから仕方がない

風邪をこじらせて死んだら、もう体が弱っていたから仕方がない

 

この「仕方がない」という感覚、線引き、常識、死生観は共同体の文化として継承され共有されていたのではないか。

現代はこれが失われ、医学、科学、医術によって死が規定されている。

いやそうではない。医学はただ無条件に生命活動の存続のみを目的とし、その目的の不達成を判定するのみで、能動的に死を規定してなどいない。

医学においては、原理的に「死とは何か」定義されないし、できないのであろう。

 

死んでしまったら医学は何もしない。

後は葬式なり何なり共同体でよきように、ということにしかならない。

ならば共同体の側で死を規定するのが自然なあり方、システムではないのか。

 

共同体の側で「仕方がない」というのを医学によって無理矢理に延命させ、寝たきりでも植物状態でも生命活動を存続させるのは、何のために誰のためになのか。

 

医学はよく生きるための手段に過ぎない。医学が医学自身の目的、つまり生命活動の存続を追求するのは、まさに手段の目的化であろう。

 

医学は生きる方途を示すが死に方は教えてくれない。

死に方は科学ではないからだ。それはずっと文化の領分だったはずだ。

 

医学サイドから文化サイドへ死を取り戻すべきなのだ