それでもSEになりたいか
2003年の初版本を処分する前にざっと見返してみる。
これまでの経験に合致する部分も多く、基本的な業態や仕事の方法論はこのころから変わっていないとも言える。
ただ、ブラックぶりは日本全体で労働環境への意識が高まった結果、わりと緩和されている。
特に耳の痛い話が最後にあった
同業種内転職バンザイ主義
本当の意味でのジックリとしてキャリアはなく、浅瀬をウロチョロしているだけ
そんな35歳を欲しがるだろうか
危機感を持つべきなのだろうな
いやしかし、突き詰めると、何に対して誰に対しての危機感なのか
それに、今よりマシな今ってどうやったらあり得たのか
いつもの話になるけど、必死に凌いできたというつもりだからなぁ
オイル交換
20/05/01
K001W0515E ゴールデン SN 5W-30
9月、12月、1月の過去3回は
クエーカー AD SN 0W-20 を入れていたので、それに比べると今回はやや粘度が高いものになる。
摩耗が進んでシリンダの隙間が大きくなったエンジンでは粘度が高いほうが隙間を埋めやすいとの記事をみたため。
ただし、担当のエンジニアにたずねたところ、粘度が高くてもオイルの消費(燃焼)はあまりかわらないとのこと。
ネット上の記事とは矛盾するので、これも踏まえて様子見となる。
処分する前にタイトルをメモしておく
さおだけ屋はなぜ潰れないのか?
会計というだけでなく商売における機会損失や回転率など基本的なことが学べる
目次を見ても内容が思い出せない
グーグル八分、広告停止処分などプラットフォームが持つ巨大な権力が引きおこす問題は2006年発行の本書にて指摘されている。
マイクロソフトが独禁法に抵触するあくどい商売を行って、他者を潰したことなども書かれている。
技術的な解説は古くなっているが、インターネット普及期までの歴史的資料としてよくまとまっている。
2001年発行。このころはこの著者の本をよく読んでいた。
倉田英之氏へのインタビュー、ROD.The TVの一気見レビューとか良い企画もあるな
野性時代 2008年3月号
りはめより100倍恐ろしい の評論を斎藤環が書いている
小説トリッパー 2005年春号、2006年夏号
なぜ手に取ったのか覚えていない
斎藤環、大塚英志など当時興味を持っていた作家の原稿は載っている
涙を売られた少女
これもなぜ読んだのか。どこかで書評を読んだからだという気がするが。
死を取り戻す
この人は寿命を迎えたと判じるのは、何によってか?
心電図、脳死判定だろうか。
近代以前は、あるいは高度な医療が行き渡る前は、共同体の文化がそれを決めていたのではないか?
ものが食えなくなったら、もう老いて衰えているから仕方がない
足を踏み外して崖から落ちたら、足腰が弱っていたから仕方がない
風邪をこじらせて死んだら、もう体が弱っていたから仕方がない
この「仕方がない」という感覚、線引き、常識、死生観は共同体の文化として継承され共有されていたのではないか。
現代はこれが失われ、医学、科学、医術によって死が規定されている。
いやそうではない。医学はただ無条件に生命活動の存続のみを目的とし、その目的の不達成を判定するのみで、能動的に死を規定してなどいない。
医学においては、原理的に「死とは何か」定義されないし、できないのであろう。
死んでしまったら医学は何もしない。
後は葬式なり何なり共同体でよきように、ということにしかならない。
ならば共同体の側で死を規定するのが自然なあり方、システムではないのか。
共同体の側で「仕方がない」というのを医学によって無理矢理に延命させ、寝たきりでも植物状態でも生命活動を存続させるのは、何のために誰のためになのか。
医学はよく生きるための手段に過ぎない。医学が医学自身の目的、つまり生命活動の存続を追求するのは、まさに手段の目的化であろう。
医学は生きる方途を示すが死に方は教えてくれない。
死に方は科学ではないからだ。それはずっと文化の領分だったはずだ。
医学サイドから文化サイドへ死を取り戻すべきなのだ