吉野、京都

4月8日、8:15のぞみ、13700

 

ラーメンを調べていたらラーメン通りというものがあるらしい。

極鳥を選ぶが、スープでなくてミートソースのようなペースト状のソースだった。

 

一乗寺からだと、貴船神社が近いので行ってみることに。

鞍馬から鞍馬山に入って貴船に回れるルートがあるらしい。

 

電車の時間があわないので近くの鷺森神社へ行く。思いのほか遠かったので電車を2つくらい見送ったことになる。

 

叡山電車で鞍馬に着くが、ここからは登山に近い登りで、そのまま持ってきたPCが重い。

山を降りるとすぐ貴船神社がある。

沢筋にそって車道があり、また川床の名所らしく店も人通りも多かった。

 

貴船神社から貴船口駅まではバスで下る

二軒茶屋でおりて、大きな道に出るとバスが通っていて上賀茂神社まですぐ行ける。

境内の桜は見頃が終わっており、本数も少なく見えた。

 

地酒を買おうと思ったがそれらしい店が見つからず。

駅に着くと伊勢丹が入っていることを知り、この手のデパートの酒コーナーならばと行ってみるとまさに地酒コーナーがあった。

試飲もできて招徳という酒を入手できた。

夕食も惣菜コーナーで確保しておく。

 

19:06京都発奈良行き

YaMapのログで鞍馬の山は450mの登り下りだった

 

9日は遅くまで寝てしまい、このままでは吉野駅着が11時より少し前くらいになってしまう。

吉野は翌日にするかしばらく迷ったが1日遅れるとそれだけ見頃を逃してしまうので行くことにする。今回のメインなので時間が足りなければ、明日もまた行けばよいことだと覚悟を決めた。

10:52吉野着

桜を見つつ大峰奥駆道を行けるとこまで行ってみよう。目標は青根が峰。

駅舎には前回の阿知賀編のポスターはなかった。

銅の鳥居、楼門などを見つつ登る。

下千本、中千本は見頃を過ぎている。上千本はどれを指しているのかよく分からないし、尾根筋を歩いていると斜面の桜を見ることができない。

前回は入れなかった水分神社に入る。

境内は狭いが古く風格のある社殿だ。大きなしだれ桜が見頃で空気が華やいでいる。

 

ここからは奥千本に向けて登る

奥千本は花がついていないがこれはまだ咲き始めのようだった。

杉を刈って桜を植える事業が進んでおり、数十年後にはものすごい景色になるだろう。

 

帰りは如意輪寺、後醍醐天皇陵を拝んで吉水神社へ。ここには一目千本というViewポイントがある。やはりもう散ってしまっている。

昨日8日に強い風が吹き、そのときに散ったのだと売店の人が話していた。

あと2日早く決断していればまた違う景色が見られたのかもしれない。

 

この日も1220mの上り下り、慣れたのかあまり痛まなかった。

 

地酒を売っている店があったので、かって帰る。八咫烏の生原酒。

 

10日の予定は最後まで迷ったが、混雑しない京都はこれが最後かもと思ったので、京都に行くことにした。

翌日に吉野の奥千本にもう一回行くことも想定する。これには大阪の阿部野橋近くに宿を取って近鉄吉野線直通に乗るほうがむしろ早い。

 

奈良を9:07発だがこれが普通なので、急行に追い抜かれてしまう。

稲荷駅には急行はとまらないので、そのまま稲荷まで行く。

せっかくなのでタイミングをはかって無人の千本鳥居の写真をとってみた。

 

京都駅のコインロッカーを使う予定だったので、PCはそのまま手持ちなのだが、、、

伏見稲荷は稲荷山の麓にあり、山頂にもお社があるとのこと。またもやPCを抱えて登ることになる。

300mだが疲れが尾を引いて足がいたい。

 

京都に着くと早速コインロッカーにPCと着替えなどを納める。

目当てのラーメン屋が臨時休業しているので、別の店に入るが麺が結構多い。これはちょっと失敗だった。

後で稲荷駅近くに「陽はまた昇る」の支店があるのに気づく。

 

八坂神社を調べるとラーメン屋から2.2kmなのであるくことにする。

偶然、開化堂の店を見つけて立ち寄る

鴨川の河川敷を歩く経験ができた。

観光ではなくて京都住みらしい外国人がちらほら。

 

八坂神社は大きいが観光地化している。これは伏見稲荷もこの後に行く平安神宮も同じだが。

さらに北へ1.1kmを歩いて平安神宮へ、鳥居、社殿がでかい。

 

もはや足が限界。最後に市バスを使って京都駅へ。

金券ショップによると14100で福岡より少し高い。

伊勢丹で丹山の酒、551の焼売を買う。

17:59発の便に乗れた。

 

桜は時期が限られるので、今回の機会を生かせなかったのは口惜しい。

大阪の阿部野橋からのほうが早いので、次はこの線で早朝を目指して行こう。

 

 

 

 

 

1917 命をかけた伝令

20/03/14に見た

ワンカットというが、ブラックアウトするので2時間がワンカットではない。

全編ワンカットとはどういうことだ? と思っていたのでまあ納得

 

技術的に、労力的にすごいことをやっているのだろうけど素人にはその凄さがいまいちわからない。

あんまり見ないカメラワーク?が多いな、という不自然さを感じてしまう部分も。

 

ミッドサマー

哲学カフェで話題にあがったので見に行った。

20/02/24なので、ちょうど1ヶ月前になる。

中州大洋で残り1席。最前列の右端でかなり見づらかった。

 

欧米で文化の盗用という言い方での批判の仕方があるが、

この映画は文化人類学の成果の濫用ではないのか。

またあるいは(意図的な)誤解があるように思える。

筆者は文化人類学の専門家ではないので確たることは言えないのだが……

 

映画の設定のうち、元ネタ、着想のもととなったであろうポイントをメモしておく

 

  • 村の入り口ゲート

「境界」を示す。やや暗い森と明るい村内との対比であり境界である。

ゲートを過ぎた直後に村人と対面し、荷物を預けるなどするのは、小さな通過儀礼:イニシエーションと見ることもできる。

輪をくぐるのは、日本では茅の輪くぐりなどと類似するか。

 

  • 人間の一生を4つに分節する

青春、朱夏、白秋、玄冬、も四季になぞらえた4分節である。

 

  • 姥捨て

町山智浩氏の解説によると姥捨崖という伝説もあるらしい

遠野物語デンデラ野、楢山節考など日本にも棄老伝説がある

 

  • 遇客婚(客人婚)

旅人と共同体の女性を性交させる

漫画のバイオメガにもそのような場面があった。

何かの映画でも見た気がする。

 

  • 隻眼

隻眼の人間には超常的な力が宿るという設定は聞いたことがある。

ある村では選ばれた少女の片眼を失明させ、宗教的な役割を与える、という設定など

 

  • 近親交配による先天性障害

親族の基本構造では近親婚のタブーは遺伝的な不利益が主な原因では無く、社会制度上の要請によるものだと主張している。

交差いとこ婚、並行いとこ婚により論証される。

 

映画では近親婚により先天性障害が発生し(意図的に発生させ)その障害者が宗教的な役割を負う(託宣を受ける)とされる。

これは観客に対して「近親婚を避けるのは、先天性障害を避けるためである」という文化人類学上の誤解を広めることになりはしないか

 

  • 性交を見守る女

マヤは性交の最中に手を伸ばし、その手をとる女がいる。この女はマヤよりも一回り上の世代であるように見える。

マヤにとって特権的な女性なので、母親と解釈できる。あるいは名付け親的な存在でもよい。

 

娘の処女喪失を見守る母、という設定はどこかで見た。乳母だったかもしれない。

見守るどころか手ほどきするという設定だったかもしれない。

 

  • 障害者の唇

この唇の奇形はハンセン病の病変とよく似ていると思ったがどうだろうか 。業病とも言うことだし。

 ネットで調べても似た症例はないので、記憶違いかもしれない。

 

 

ざっと書き飛ばしたが、見た直後の印象よりも文化人類学といえるものは少ないか。

フォーク・ホラーというカテゴリがあるそうなので、ぱっと見で似たつくりの映画は多いのだろう。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 13

 

だが、プロムは絶対に実現することになる。

それだけは、決まっている。

こう独白する主人公は人が変わったようだった。

 

海老名、一色など周囲のキャラとも深い話を交わすシーンがあって、物語の終幕に向かって書き残しがないようにしているような印象もある。

 

平塚先生はメンターとして、進行役として使いやすいキャラだったのかも知れないが、作者のお気に入りになった感がある。

 

葉山の過去は具体的に描写されることはなさそうだ。前巻からの間があいてしまったのだが、匂わせるような描写だと記憶に残らないので把握が難しい。読解力不足か。

 

陽乃が由比ヶ浜に対して、

ヒキガヤと由比ヶ浜が一番重症と指摘する。また

「あの子たちがあんな感じだから、あなたが一番大人にならざるを得ないのよね」

 とも指摘する。

これに対して共依存なんかじゃないと否定する。

「痛いから」と否定する。

 

痛みについては、もうちょっと詳しい描写があるのだけれど、これはちょっと考えさせられた。

共依存の当事者は苦しみを自覚することはあるのだろうけれど、彼女の言うような痛みはないような気がする。

ほんの数行だけれど、共依存かそうでないかについて考え続けた作者の回答の一つなのかな。

 

 

 

なんというか彼らは関係性に対して、まじめなのだな。あるいは過剰にまじめなのだろう。

我々はそれを避けてきた。

 

村山由佳が、世の中にある恋愛と言われるものの半分は恋愛ではなく依存である、というようなことを言っていたと過去にも書いた。

そのときはそうだろうな、自分もそう思っていたという感想だった。

だが、今になってみると、当事者はそんな定義はどうでもよいのだろうと思うようになった。

恋愛でも依存でも自分はパートナーがいるような人間であるというステータスで自尊心を満たし、また、マウントの取り合いができれば、日々をやり過ごすことができる。

自分が抱えるこの関係性が依存なのか恋愛なのかということを問うようなまじめさはやはり過剰なのだろう。

 

 

んー、近年は恋愛性愛からの撤退とか言われている。

そこにあって、この物語が恋愛へ収束していくのをどうとらえるか。

撤退とは打算的な恋愛・関係性からの撤退であって、今後は、より純粋な関係性への欲求が顕在化・一般化してくるのではないか。(純粋というのは絶対的とも言えるかも知れない)

そうであるならば、かつて恋愛と名付けられていた関係性が別の概念として再発明されるだろう。これはその端境期の作品といえるだろうか。

 

 

 

 

 

 

気分が沈む

記録に残しておく

 

スポーツなどでやる気がでない。仕事もやる気がでない。

食欲などの欲は昂進している気がする。ある種の抑鬱症状なのか。

先々週までちょっと仕事が忙しくハイになっていた反動だろうかと思い当たった。

 

天気の子の感想も残しておきたいが……

個人的には好きな作品だけど、やっぱり批評的には素直にほめにくいというか、人にすすめにくい。

それと、この映画はフェミニズム陣営に攻撃されかねない部分があると思っているがどうだろう。まあ、前作も同じか。

 

介護系の会社だと事務職で雇われても結局は現場の手伝いもやることになりそうだよな。資格がないからコアな部分はできないだろうけど雑用とか。

間接部門の仕事ってそんな仕事量あるか? なさそうに思えてきた。

 

 

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝

特別なエンドロールということもあって、終幕後に明かりが点くまで誰も席を立たなかった。こんなことは初めてだった。

そして、その直前に出た「鋭意制作中」のカット。

これほど悲痛なことはない。

 

 

本編は、すばらしい映像美であるし、内容はサービス満載だった。

特に前半はこれでもかというゆりゆりしいシーンがたくさん

燕尾服のヴァイオレットの登場から優美なダンス、目がくらむようだ

 

続きを読む