やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 13
だが、プロムは絶対に実現することになる。
それだけは、決まっている。
こう独白する主人公は人が変わったようだった。
海老名、一色など周囲のキャラとも深い話を交わすシーンがあって、物語の終幕に向かって書き残しがないようにしているような印象もある。
平塚先生はメンターとして、進行役として使いやすいキャラだったのかも知れないが、作者のお気に入りになった感がある。
葉山の過去は具体的に描写されることはなさそうだ。前巻からの間があいてしまったのだが、匂わせるような描写だと記憶に残らないので把握が難しい。読解力不足か。
陽乃が由比ヶ浜に対して、
ヒキガヤと由比ヶ浜が一番重症と指摘する。また
「あの子たちがあんな感じだから、あなたが一番大人にならざるを得ないのよね」
とも指摘する。
これに対して共依存なんかじゃないと否定する。
「痛いから」と否定する。
痛みについては、もうちょっと詳しい描写があるのだけれど、これはちょっと考えさせられた。
共依存の当事者は苦しみを自覚することはあるのだろうけれど、彼女の言うような痛みはないような気がする。
ほんの数行だけれど、共依存かそうでないかについて考え続けた作者の回答の一つなのかな。
なんというか彼らは関係性に対して、まじめなのだな。あるいは過剰にまじめなのだろう。
我々はそれを避けてきた。
村山由佳が、世の中にある恋愛と言われるものの半分は恋愛ではなく依存である、というようなことを言っていたと過去にも書いた。
そのときはそうだろうな、自分もそう思っていたという感想だった。
だが、今になってみると、当事者はそんな定義はどうでもよいのだろうと思うようになった。
恋愛でも依存でも自分はパートナーがいるような人間であるというステータスで自尊心を満たし、また、マウントの取り合いができれば、日々をやり過ごすことができる。
自分が抱えるこの関係性が依存なのか恋愛なのかということを問うようなまじめさはやはり過剰なのだろう。
んー、近年は恋愛性愛からの撤退とか言われている。
そこにあって、この物語が恋愛へ収束していくのをどうとらえるか。
撤退とは打算的な恋愛・関係性からの撤退であって、今後は、より純粋な関係性への欲求が顕在化・一般化してくるのではないか。(純粋というのは絶対的とも言えるかも知れない)
そうであるならば、かつて恋愛と名付けられていた関係性が別の概念として再発明されるだろう。これはその端境期の作品といえるだろうか。