社会の標準としての「空気読め」

 お笑い番組の中には、空気を読めないがために発生するマズイ状況を戯画化して笑うコントがある。このようなコントを見ていると、日本人は目に見えない多くのスタンダードを持っているのだと度々思う。ちょっとした受け答えにしても、標準的な振る舞いから少しでもズレがあれば、それは鋭い観察と皮肉によって笑いになる。
 そして、そのようなコントには必ず、空気を読めない人に対する軽蔑が含まれている。それは「嘲笑」であり、機知とは違う「馬鹿にする笑い」が含まれている。
 私はこのタイプの笑いにあまり面白みを感じない。この手のコントには往々にして奇想や遊びが無い。つまりは、空気を読めない人間が空気を読めないのは至って当たり前のことにすぎない。内反足の人間が転げても可笑しくはないし、分裂病の人間が独り言をしゃべっていても可笑しくはない。
 また、このように軽蔑によって笑うためには、自分は彼らと違う、自分の方が優越している、自分の感覚はみんなと同じである、という(無意識・無自覚の)前提が必要だ。自分の社会的常識が正しいと自信を持っていなければならない。この自信がないと笑うに笑えない。いつ自分が笑われる立場になるか知れないのだから。
 自分の常識を自分で疑っている人間はたぶん笑えない。