本屋で

 ジュンク堂の会計で、ふと隣のカウンターを見ると立命館の赤本、大学入試過去問題集が目に入った。早稲田、明治、その他にも買っていたかもしれない。なんだか懐かしいような気がして買い主をみると、ちょっと背が低い女子高生らしき人だった。
 なぜそれを記事にするのかというと、彼女の隣には母親らしき人が居たからだ。


 何か理由があるのかもしれないが、私の目には子離れできない母と映った。
 表に出れば同年代の人間同士で連れ立って歩いている人たちが、いくらでもある。夕刻の繁華街の真っ只中なのだ。問題集を買うのに親とくる必要があるのだろうか。別に用がなくとも付き合ってくれる友人がいたり、あるいは一人で買いに来てもいい。


 女子高生の髪はショートで艶がなくごわついているように見える。生来の体質かわからないが、最低限の手入れしかしていないのではないだろうか。髪の手入れの方法について、化粧の仕方について、そういうものごとを友人たちと話すことはあるのだろうか。
 そうでなければ、彼女は大きなハンディを負っていることになると思う。


 あの時間に、本屋に居るということは、母親はおそらくフルタイムで働いてはいない。専業主婦かもしれない。娘には経済的にも自立した大人になってほしいのだろうか。あるいは、将来有望な若者に嫁いでほしいのだろうか。
 子の幸せを願っていることに嘘はない。しかし、その願望のためになされる言動が子を縛っていることになる可能性に思い至ることはないのだろう。


 子どもは子どもとして時を送らなければならない。高校生は高校生として時を送らねばならない。
 甘えるべきときは甘える。反抗するべきときは反抗する。
 同じ時代に育った友人に理解され、理解し、同じ時間を過ごす。
 悩むべきとき、苦しむべきとき……。


 やって見せることはできる。でも、親が子にしてやれることは、そう大きなことではない。