シン・エヴァンゲリオン

イオンシネマにて

 

物資の配給があるなど、戦後のイメージに近い村社会。

労働が義務化されていて共産主義にも見える。

 

綾波と共同体(のおばちゃん達)との関係性は田舎の素朴なパターナリズムであり、彼女に訪れる学びの体験も素朴な情動と関係性の学びである。

この原初的な共同体、人間関係、情動、を基本的な価値、肯定的価値として提示される。

このストレートな表現は監督が大人になったということか、あるいはそれをとうに通り越して、オタクに大人になれということなのか。

続く脚本を見ると後者であろう。

 

シンジは人里離れたところに住むケンスケのもとに移り、しかし彼の優しさを拒絶する。綾波とは対照的である。

彼のセリフ「何でみんな、こんなに優しいんだ」

これは彼が、何と言うべきか、彼なりに頑張ったからである。

そういう人に対して、世の人々はそれなりに優しい。

 

 

私がこれを理解したのは近年のことである。

監督も同じことを人生のある時期に感じたのではないだろうか。そしてそれをオタクへ伝えたかった。

しかしこれは、わかる人には言わなくてもわかるし、わからない人には言ってもわからない。そういうものだと思う。

TV版放映時の自分には当然わからない。どれだけ諭されてもわからない。

 

家出したシンジを見守るアスカもまた優しい。いや、それを超えた慈しみを持っている。

これは後のシーンにつながっていたようだ。

 

加地リョージと葛城。二人、あるいは三人の物語。これはやや傍らに追いやられた感がある。

 

さてシンジは今一度、ヴンダーに乗ることを決意する。戦うことを、エヴァにのることを。

 

決戦の直前、アスカはシンジに尋ねる。

なぜ殴ろうとしたのか。その答えは、アスカが乗った3号機を前に、殺すことも生かすことも選ばなかった、責任をとろうとしなかったから。

アスカはその応えを認め、シンジが大人になったと認めた。

 

礼を言う。弁当がおいしかった。

あの頃、たぶんシンジが好きだったと。

 

アスカはキャラクターが変わったと感じた。臆面もなくそんなことを言うことはなかったと思う。例え最後の会話だとしても。

マリはスッキリしたかと尋ねるが、一連のやり取りはアスカ自身の気持ちによるだけでなく、これはアスカからシンジへの贈与である。

 

マイナス宇宙での会話劇

「涙は自分しか救わない」辛辣な言葉だ。シンジの自己批判であり、成長の証左であり、また大人になれないオタクへの呪詛なのだろうか。

 

マイナス宇宙から、一人一人を送り返すストーリーはクロスチャンネルを想起させる。誰かがレビューを書いてくれるだろう。

 

ロングヘアの綾波は絵的にインパクトが大きかった。

 

ゲンドウの内面世界を掘り下げるのは予想外だった。

でもエヴァンゲリオンという作品世界の起点がどこかと考えると、ここに対して落とし前をつけないといけないのは必然なのかもしれない。

 

最後までエディプスコンプレックスの話ということになるのかなぁ

 

13号機を恐れるが故のATフィールド、シンジを恐れるが故のゲンドウのATフィールド。

敵ではなく、侵害ではなく、自らが感じる恐れがATフィールドを生み出すということが明示的に示された。

 

NeonGenesis、新しい世界を作る、エヴァがなくてもいい世界を作る、という言い回しがされている。

そして最後に宇部新川駅の実写が映る。

では、この世界がそのNeonGenesisを経た世界ということだろうか。

 

 

いつの間にか、いつまでも終わらない作品という感覚になっていたので、終わるとさみしいな。