「断片的なものの社会学」
P13
こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。
私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力と無縁ではいられない、ということである。社会学者がこの問題にどう向き合うかは、それはそれぞれの社会学者の課題としてある。
P49
この部分は前後の文章も引用したいが、書き起こすのは存外に手間なもの。
著者が冗談半分に「寄せ鍋理論」と名付けている理論についての部分。
しかし、人は、お互いの存在をむき出しにすることがほんとうに苦手だ。私たちは、相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。
私たちは、お互いの目を見ずにすますために、私たちの間に小さな鍋を置いて、そこを見るのである。
おばちゃんたちにとって、植木鉢は鍋であり、通貨であり、言葉である。
P97
ここだけ抜き出すとわけがわからないが、可笑しい一文。
いままで、一度も笑いが取れたことがない。
様々な経験や考えが穏やかな語り口で書かれている。
穏やかで、痛みや苦しみが感じられない。それは丁寧に抑制されているのかもしれない。
だがおそらくは、筆者はもうすでに折り合いをつけることができているのだろう。私はそういう筆者に深く共感することはできない。
ああそうか、社会科学への関心だと思っていたものは社会への恨み憎しみだったのか。
普通というのはそれについて考える必要がないということだ、というくだりがある。在日コリアンに対比すべきものは日本人ではない。マジョリティである日本人は民族ということについて考えることがない。それが普通ということかもしれないということだ。
普通の人間は社会について考えることがないのだろう。